MASUMI~奄美群島への移住支援情報サイト「ねりやかなや」運営

山腰真澄

(2023/8現在)

シングル アラカン 東京出身 奄美大島在住 サイト運営

2007年7月移住。
東京生まれの東京育ち。
製薬メーカーのOLから外資系戦略コンサルティング会社に転職し、同業数社を渡り歩きながら、主に経営危機に陥っていた企業を再生する仕事をしていました。30歳で結婚した夫と結婚当初から「いつかは田舎暮らし」を合言葉にワーカホリックな日々を過ごし、アラフィフ突入直後に夫と一緒に奄美大島に移住しました。

でも、移住11か月後に夫がシュノーケリング中に心不全を起こし、この世を去ってしまいました。どん底の精神状態から救ってくれた奄美大島に感謝の意も込めて、移住支援情報サイト「ねりやかなや」を2008年12月に立ち上げました。

奄美群島UIO協議会のメンバーとして移住支援活動も続けている中で、奄美群島の空き家問題に取り組む特定非営利活動法人あまみ空き家ラボの設立をサポートしました。現在は、サイト運営と、カヤックなど島ライフを楽しんでいます。

なぜ奄美大島だったの?

決め手は「近くて便利な割に、大自然が残る大きな島」

東京では2年で8割のスタッフが入れ替わる過激な職業で、本当によく働いていましたね。日本が誇る美術館や音楽ホールが目と鼻の先にある事務所にいながらも、仕事の関係で当日土壇場キャンセルは日常茶飯事。でも、夫婦二人とも都会よりも自然が好きで、休みとなればキャンプ、温泉、シュノーケリングなど、常に東京を脱出していました。おまけにすこぶるストレスフルな仕事だった関係で、結婚当初から「絶対に早期リタイヤ、目指すは山か海など自然豊富な田舎暮らし!」は二人の暗黙の了解でした。

でも、山か海に決めるには10年くらいかかったかも(笑)。山好きの夫は「八ヶ岳!」、私は「サンゴ礁!」でした。だけど、忙しい時が続いて、そのうち休暇は全て海外の人込みのないマイナーリゾートでだらだら過ごすことが多くなりました。その頃から南の島で夫婦の意見の一致を見たものの、候補地探しはそれほど真剣でなかったです。バリ島がいいとか、フィリピンのボラカイ島がいいとか、軽い気持ちで考えていましたね。

厚生年金を受け取るために必要な勤続年数が過ぎるまでサラリーマンでいることにしていました。受給資格獲得が近づき、早期リタイヤが視野に入ってくると、単純に夢見る海外移住から、現実解として南西諸島に移住先は変わりました。英語圏であれば言葉に不自由するほどではなかったけれど、文化が全く異なる地は暮らすとなると理解しえない部分がありそう。また、セブ島で夫が熱を出し、お医者様にかかったのを機に医療体制も考えるようになりました。

南西諸島に絞ったのは、当時はサンゴ礁の北限が奄美大島という単純な理由ですね。沖縄の島々を中心に、5年くらいかけて島めぐりを繰り返していました。海外出張で貯めたマイルは使い果たしましたね。そのうちに、最終候補は石垣島、沖縄本島、奄美大島になりました。その理由は、東京からの直行便があること。両親が当時は東京で健在で、友達もみんな東京。今、考えると恐ろしいくらい単純なことで決めていました。

奄美大島は沖縄に向かっているときに飛行機の中で見つけました。実は奄美大島がどこにあるのか、それまで知らなかったです。機内誌の航路マップを見ていて、「大きな島があるじゃない」。沖縄の島に決めてしまう前に、候補から振り落とすつもりで奄美大島に行ってみました。

南の島々はトップシーズンに行けば、天国と思うくらい楽しいところ。だから、厳しい季節のはずの冬に行きました。奄美大島は全国屈指の雨の島で、冬は東南アジアの気温が低い雨期そのもの。楽しいはずがありません。でも、行ってみると、「わー、滅茶苦茶いいところじゃない!凄く暮らしやすそう」が夫婦揃って意見でした。東京から直行便も出ているのに、驚くほどきれいな海。緑豊かな山が開発されずに残っていて、ゴルフ場だらけの沖縄とはまるで違う!そして、アスファルトで覆われ、人で溢れ返る都会の沖縄との違いは一目瞭然でした。でも、適度に大型スーパーやドラッグストアもあるし、県の支庁もあるし、病院も沢山あるじゃないですか。沖縄本島と同じくらいの面積で、場所によって雰囲気が変わるから、島の中だけでも飽きないとも思いましたね。

なぜ移住支援情報サイトを立ち上げたの?

この素晴らしい奄美の島々を一人でも多くの人に知ってもらって、 暮らしてみたいと思う人の手助けができればと思っています

私が奄美大島に移住した頃、奄美の島々はほぼ無名でした。「奄美大島に引っ越す」と知人に言うと、「どこにあるの?」が大半の人の反応でした。こんなに素晴らしい島々が日本にあるのに、知らないなんてもったいない!とブログを書き始めました。夫が亡くなって、「このままじゃおかしくなって、お世話になった島の人に迷惑をかけちゃう」精神状態から脱出しようと考えたときに、ブログの読者が友人ばかりではないことに着目しました。島に暮らすための情報サイトをやろう!

ネットバブル時代に一時インターネットベンチャーの立ち上げに参加したので、サイト運営の知識なら少しはある。どうやって儲けるかは考えたけれど、軌道に乗せないことには話にならないので、用意した資本金が尽きるまでは走ることにしました。

サイトの立ち上げに奔走し始めたら、びっくり!の出来事が続出。一人で悪戦苦闘すると思っていたのに、本当に多くの方々に助けて頂きました。「人口が少ない=大変」ではなく、「=みんな顔見知りになる」ので、何かを始める時に回りの人々は自然と協力してくれるのが島です。たまたま行政が移住のための協議会の準備に入った時とサイト立ち上げの時期が一緒で、その時点から奄美群島の行政、民間の人々と一緒に奄美群島での移住支援の在り方や受け入れ方を協議し、実践するようになりました。奄美群島の島々を飛び回りながら、一人では絶対に成し得なかったことを多くの仲間と実現しようとしています。

でも、働き方は東京時代とは変わりました。稼ぐために働き、稼ぐために抱えたストレスを抜くためにお金を使うのが東京での働き方だとすると、稼ぎは少ないけれどストレスはないですね。時間の流れは良くも悪くも島時間。できる時に焦ることなく出来ることをやりながら、自然に逆らうことなく自然に備え、自然を楽しむ。これが私の選んだスローライフなんだと思っています。

移り住むまでに一番苦労したことは?

住む家が見つからない!の一言です!

奄美大島と決めてからの道のりが長かったです。5年間かかってしまいました。その経緯は、奄美に住もう>住まい>移住者たちの住まい失敗談>いきなり新築移住はお勧めできません! を見てくださいね。

一般的に田舎に移住する時に心配することは、「仕事は?住まいは?」です。奄美の島々では好きな仕事が選べるほどの求人があるわけではありませんが、働く場はゼロではありません。でも、住まいは私が移住した10年以上前から今も「空き家は沢山あるのに、貸してくれる家はほとんどない」状態です。

都会で暮らす子供が帰って来るかもしれないからと、貸家にすることに躊躇するおばあちゃんは多いです。先祖を大事にする島の人々は、誰も住まなくなった実家のお仏壇にも月に2回、お線香をあげに行きます。島内に住む親戚では整理しきれない荷物が入ったままの空き家がたくさんあります。空き家の持ち主の大半が島外に住んでいて、空き家を探している人々の存在を知らないでいます。

流通物件の大半が島の市街地に集中しています。不動産会社は転勤族を対象とした市街地の需要の高い物件を中心に取り扱います。家賃の安い田舎の物件は後回しになりがちなので、田舎の物件は相対取引が主流です。移住したい人の大半が「海の見える田舎の一軒家」を望んでいても、行政の空き家バンクを含めて公開される田舎物件は限りなくゼロ。空き家の持ち主は借りたい人の顔を見て話をしてから貸家にすることを決めることも多く、過去に借主とトラブルがあったりすると、周囲の人々の脳裏に刻まれ、他の家主も貸したがらなくなってしまいます。住みたい人がいるなら貸家にしようと思っても、高齢の家主に改修するお金はありません。手を入れれば住める家でも、改修しない状態では都会の人が見学すると「廃屋」に見えてしまいます。

移住支援情報をねりやかなやHPで発信する傍ら、奄美群島UIO協議会の活動で移住支援の在り方の協議を重ねていくうちに、最も必要な取組みは「住みたい人のために家を確保する」ことだと考えるようになりました。「住みたい人がいるのに、空き家や空き地は増える一方」の状態を何とか変えたい!ひとつひとつ丁寧に課題と向かい合って、みんなにとって最善の解決を目指そう!そう感じた仲間と奄美群島の空き家問題を解決するNPOを2017年に作りました。設立3年で軌道に乗せることが出来たので私は退任しましたが、特定非営利活動法人あまみ空き家ラボでは、これまで使えると見做されなかった空き家や空き地を使って、新しいビジネスの仕組みをみんなで作り上げる活動をしています。応援してあげてくださいね。

移り住んでからびっくりしたことは?

自然の豊かさと厳しさ、肌で自然を理解している島の人々の心の豊かさです

塩害など家にまつわること以外でも驚くことは沢山ありました。本州の四季ほど春夏秋冬の季節感はなく、長い夏と短い冬という東南アジアの気候です。でも、確実に夏に向かっているとか、冬が始まるとかを自然からたくさん感じます。3月半ばから始まる短い新緑は若草色ではなくてショッキンググリーン。夏前の昼間や冬場の夜中の大潮の干潮時にはリーフの外側まで海水が引き、島の人たちはイザリと称する魚も貝も獲物になる潮干狩りに行きます。

真夏は高気圧が張り出して「これぞ、南の島の夏!」。外洋に囲まれているため、最高気温は33度くらい。東京よりも暮らしやすいです。でも、台風の脅威は「凄い!」の一言に尽きます。数時間で通過する本州と違い、2泊3日の滞在が当たり前。停電することは滅多に起きなくなりましたが、台風通過の度に停電は覚悟します。台風前から冷凍庫内の値段の張る食品から食べ始め、冷凍庫にスペースを作り、水のペットボトルを凍らせます。いざ停電になったら、ボトルを冷蔵庫に移し保冷剤替わりします。台風中は当然、家に籠りきりになりますが、普段はやりたくない書類整理がはかどり、さらに映画もたくさん見たりします。でも、台風通過後は家や植木、車の水洗いなどの重労働が待っています。

冬は12月末から2月上旬と短いですが、それなりに寒く、大陸からの北風が体感温度をさらに下げます。晴れる日はほとんどなく、雨または曇りの連続。でも、湿度が高いので、リップクリームもハンドクリームも使いません。

移住前の下調べの時、今と違ってインターネットを検索しても観光じゃない生活情報はほとんど集まらなかったです。奄美空港のロビーに売っていた奄美本を買いあさっていましたね。でも、勉強不足だったと痛感します。本当に大事な集落のこととか慣習とかの地域に関することは住んでから初めて理解するようになりました。

自然は恵みもあれば、「うわー!」という場面も。見た目はムカデの親戚のようなヤスデの大量発生を経験しました。毎朝、生死を問わずヤスデを掃いて集めていました。梅雨明け前に飛来してくる何万匹というシロアリも風物詩と思って対処できるようになりました。自然界の昆虫としての自覚しかない、網戸に張り付いている巨大ゴキブリが殺虫スプレーを噴射する私に向かって攻撃してきたこともありました。

島で暮らしていると、人間も自然の一部だと素直に思えます。自然の驚異を相手に人間が逆らうなんて無理。泣こうが喚こうが台風はやって来るし、虫も来襲してきます。自然のリズムに人間が合わせていくのが正しい人生の過ごし方、人間関係なんて自然の営みで考えたらちっぽけなことだと思えてきます。

夫が突然亡くなった時は、周囲の人々が本当に尽力してくださいました。家から送り出したい一心で葬儀を家で執り行いましたが、集落の皆さんがお願いするわけでもなく仕切ってくださいました。食事も喉を通らなかった時には「これ、夕べの夜ご飯の残り物だけど」と出勤前に差し入れなど、いろんな食べ物を持ってきてくださったり、一人で心細かった時に泊めてもらったりもしました。精神的に立ち直るまで5年くらいかかりましたが、その間、多くの人々が陰ひなたで気にかけてくれました。

人間の生死も島では当たり前の出来事。亡くなっていくおばあちゃんがいれば、生まれてくる赤ちゃんもいる。その当たり前の出来事が都会では身近な人だけの出来事ですが、島ではみんなの出来事。みんなの出来事だから、辛いことも嬉しいことも一緒に分かち合う・・・この感覚が島ライフなんだと思います。

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